福井城について

 

結城秀康の築いた福井城

(名称は北ノ庄城~福居城~福井城に)

徳川家康の二男、結城秀康は慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い後、越前の地に68万石を与えられ約6年の歳月を掛け壮大な城を築きました。
 寛文9年(1669年)の春に起きた大火により天守閣をはじめ城下町の全体が焼失しました。大火後建て替えられた3階建ての翼櫓は、天守閣に代わるものとして幕末まで存在しました。
 平地に築かれた城は幾重ものお堀に囲まれ現在も残る大きな内堀と足羽山から採取した笏谷石で築かれた石垣に当時の威容を偲ぶことができます。

 福井城の本丸、西二の丸・三の丸

 現在、県庁や県警本部庁舎がたっている場所は 今から400余年も前に結城秀康が築いた福井城の本丸跡、その西の中央公園には同じく福井城の西二の丸・西三の丸がありました。
 本丸跡の西北隅には今も天守台があり、この上には四重五階、高さ約100尺(約30メートル)の天守が聳えていました。内堀廻りの石垣上には東北・東南・西南の各隅にそれぞれ艮(うしとら)・巽(たつみ)・坤(ひつじさる)の隅櫓がたち、渡櫓や土塀でつながり、中央の平坦地には1,000坪を超す大きな本丸御殿もありました。そして御本城橋(南)、御廊下橋(西)、土橋(北)の3つの橋がかかり、それぞれの橋詰めには瓦御門、山里口御門、北不明門が守りを固めていました。


 一方、中央公園内の旧西二の丸には山里丸があり、西隣の旧三の丸には殿様の住まい、御座所があり、殿様はここから御廊下橋を渡って山里口御門を通って本丸へ登城していたのです。
県庁舎がある場所と中央公園の一帯は、福井城の中核部で、最も重要な場所だったのです。

福井城跡公園

 県と福井市が平成26年に協同策定した『県都デザイン戦略』では、県庁と中央公園を含むこの一帯を福井城跡公園として整備する構想を掲げています。この戦略の一環として昨年度、県が山里口御門を再建、福井市が中央公園を整備し、旧二ノ丸・三の丸間の堀や御座所の跡を石や芝生で地表復元、随所に説明板を設置しています。現地へ行くと、笏谷石瓦葺きの山里口御門は優美な姿をみせ、4,5年前に再建された御廊下橋と一体となって往時の本丸の出入り口(虎口)を彷彿させてくれます。この光景を写真に納めるお城マニアの姿も目立つようです。

整備された中央公園では堀跡ステージや広い芝生で憩う親子や若者、お年寄りの姿もみられます。県や市が目論む城跡公園の整備は着々進行しているようです。

坤櫓と土塀の再生

 この御廊下橋や山里口御門の背後の高い石垣は天守台で、そこには福井城の天守が聳え、山里口御門から右手に延びる石垣の上には土塀が連なり、その先端には三重の坤櫓があったのです。この光景は御廊下橋詰めに設定されている VRで偲ぶことができます。アイフォンにかざして一度、味わってみてください。天守の建設はまだ先としても、この土塀と坤櫓があれば、往時の福井城の姿がより鮮明に蘇り、城跡公園のイメージが強烈になってきます。

 われわれ福井城の復元をすすめる会は、今後の城跡公園の整備事業として、この旧本丸西側の石垣上に土塀と坤櫓の再現を県や市に働きかけていきます。さらに中央公園内も旧堀や旧御座所・表門などを具体的に再現し、より魅力的な城跡公園整備を求めて積極的な活動を展開していきます。